Friday, November 25, 2011

内田樹氏の声明を読んで-その後脱線・・・

内田樹氏(神戸女学院大学名誉教授) が平松邦夫市長から大阪市長特別顧問を委託され、一か月が経ちます。その内田氏が、政治と教育の在り方について、氏の見解をブログで詳しく述べられています。

http://blog.tatsuru.com/2011/11/24_2042.php

この記事を読ませていただきましたが、学習者として考えるべきところがたくさんあります。あらゆるところで内田氏の見解にうなずく方もいらっしゃいますから、一度皆さんもご覧になってはいかがでしょうか。あと数日で大阪市の選挙が執行されますが、選挙のことは一旦考えずにご一読いただく方がよろしいかと思います。


以下は私の浅薄な見解です。乱暴な表現が随所に現れます。見るに堪えない方は、どうぞお引き取りください。


また、以下では4つのことについて考えます。①教育改革のスピード、②学ぶことと教育の役割、③教育の計画性と数値化、④現場の声、についてです。



①教育改革のスピード

内田氏は教育政策を劇的に変えることを望んでおらず、それは冒頭からその声明に現れます。(以下引用)


教育現場にドラスティックで急激な変化は馴染まない(から一部抜粋)
今日は維新の会が提案した教育基本条例案の理論的な難点を指摘していきたいと思っていますが、最大の問題点は、この条例案は「学校教育というのは非常に惰性の強いシステムであって、頻繁な変更になじまない」という現場の人間にとっての常識を理解していないということです。
ある教育方法を導入してから、その効果を検証をするまでには、10年から20年、場合によっては30年、40年かかります。2年や3年で効果が分かるはずがない。
教育は生身の人間が相手の仕事です。子供たちは学校に来る前にすでに、さまざまな思想信条、信教、イデオロギーをもった周囲の大人たちの影響を受けていま す。その子供たちを学校は迎え入れて、ある種の方向づけをしていく。子供たちの中に深く内面化し、それこそ、血肉化しているものをいじってゆく仕事です。 だから、ゆっくりやるしかない。それぞれの子供の個性によって、子供たちが受けてきた家庭教育によって、子供たちは教師の働きかけに違う反応を示す。全級 一斉に同じことを教えるわけにはゆかないんです。子供一人一人について、やり方を変えなければいけない。



これに対して批判する人はなかなかいらっしゃらないかと思います。いるとすれば、その方はあまりに時間に切迫された人生を過ごされた方か、教わればなんでもすぐにできてしまう頭の良い方だけでしょう。

氏は続けます。


教育現場ができるのは、「マイナーチェンジ」だけです。子供たちの成長に合わせてゆっくり変えてゆく。経験的に「これでまあ大丈夫」という教育方法を実践しつつ、微調整してゆく。
たしかに社会は急激に変化していきます。政治だって変わる。でも、そうした外の社会の変化のスピードに学校は合わせちゃいけないんです。ビジネスなら、新 しいビジネスモデルを取り入れて、起業して、市場にその適否の判断を委ねるということができる。それはすぐわかる。ビジネスにおいては「マーケットは間違 えない」というルールでゲームをやってますから。正しければ儲かり、間違っていれば倒産する。それだけのことです。でも、実際には設立された株式会社のう ち、20年後まで生き残っているのは100社に1社程度でしょう。会社ならそれでいい。でも、こっちは生身の人間が相手なんです。1%なんていう歩留まり で教育モデルを試すわけにはゆきません。100人中99人は「教育に失敗しました」というようなことを教師は言う訳にはゆかない。




これについてですが、「教育に失敗しました」というあたりが、私には少し読み取りずらかったです。私は教師が指導方法を間違えることは何度もあると思います。生身の人間を扱うわけですから、その場その場で100%正しい指導ができるはずがありません。しかしそれを振り返ってまた次の指導へと繋げることができますし、その失敗を反省して分析し、次へつなげる力こそ教師の力だと私は考えます。そういった意味では、内田氏の言う「教育に失敗しました」という教師は1%もいてはならないと思います。しかし、若干ですが「指導に失敗は許されない」という風にも感じとれました。私の勉強不足でしょうが。

整理し直すと、内田氏の発言の意図は、あくまで教育政策に後戻りはできないということであって、それ故に劇的な変革は避け、十分な判断・配慮で事実を吟味し、少しずつ変えていくしかないということを述べているのだと思います。



②学ぶこととと教育の役割

スティーブ・ジョブズと嘉納治五郎に見る「教育の意味」(から一部抜粋)
――こういうことを勉強すると、これこれこういういいことがある、この知識や技能や資格や免状はこういうふうにあなたの利益を増大させる、というような情報に 耳を貸すな、とジョブズは言っているんです。だって、まわりの人が「これを勉強しろ。これを勉強すると得をするぞ」と言い立てている通りに勉強するなら、 勇気なんか要りませんから。勇気が要るのは、「そんなことをしてなんの役に立つんだ」とまわりが責め立てて来るからです。それに対して本人は有効な反論が できない。でも、これがやりたい。これを学びたい。この先生についてゆきたい。そう切実に思う。だから、それを周囲の反対や無理解に抗して実行するために は勇気が要る。自分の心の声と直感を信じる勇気が要る。――

――僕たちは「何となく」あることがしたくなり、あることを避けたく思う。その理由をそのときは言えない。でも、何年か何十年か経って振り返ると、それらの選 択には必然性があることがわかる。それが「点」なんです。自分がこれからどういう点を結んで線を作ることになるのか、事前には言えない。「点を結ぶ」こと ができるのは、後から、回顧的に自分の人生を振り返ったときだけなんです。
教育はまさにそのような行程です。教育を受ける前には、自分がどうしてそれを勉強するのかその理由はわからない。だから、教育を受けるに先立って、「これ を勉強したら、どんないいことがあるんですか?」という理由の開示を求めるのは間違っている。ほんとうに必要な勉強は、「それをやらなければならないよう な気がするが、どうしてそんな気がするのかは説明できない」というかたちでなされるものだからです。学ぶに先立って学ぶことの意味や有用性について「教え ろ」というのは間違っているんです。――



これについては、特に現代社会の若者が理解しなくてはならないことだと思います。社会を生き抜くための方法や目標だけにとらわれていれば、その目標がなくなった時に生きる目標を失うことになるからです。自分の心の信ずるままにやりたいことをする(もちろん法という規範を逸脱しない限りで)ことが、最終的に自らを救うことになるのだと私は思っています。私の友人にも、「将来安定してるから公務員になる」などと生き残る手段ばかりを考えている人がいます。恥ずかしながら私もそのように考えていた時があります。しかし、何かの都合で辞めなくてはならなくなったとき、生きる希望を見失います。私はこうした生きる希望を見失うような人間をつくらないために教育があるのだと思います。



③教育の計画性と数値化


――成長する前に「僕はこれこれこういうプロセスを踏んで、これだけ成長しようと思います」という子供がいたら、その子には成長するチャンスがない。というの は、「成長する」ということは、それまで自分が知らなかった度量衡で自分のしたことの意味や価値を考量し、それまで自分が知らなかったロジックで自分の行 動を説明することができるようになるということだからです。だから、あらかじめ、「僕はこんなふうに成長する予定です」というようなことは言えるはずがな い。学びというのはつねにそういうふうに、未来に向けて身を投じる勇気を要する営みなんです。 
教育の効果というのは事後的にしか分からない。ジョブズにしても嘉納治五郎にしても、自分がある時点で受けた教育の意味がずっと後になるまでわからなかっ た。たぶん、僕たちは死ぬ間際になるまで自分の受けた教育の価値はほんとうは分からない。教育の意味は受けたその時点で開示されるわけじゃない。その時点 ではわからない。教育を受けた結果、自分自身が現に成長を遂げたことによって、受けた教育の意味がわかる。それを語れる語彙を持ったこと、その価値を考量 できる度量衡を手に入れたことこそが教育の贈り物だからです。
そういう非常にダイナミックなかたちで教育の価値、教育のアウトカムは現実化する。ですからもし教育に意味があるとすれば、それは教育を受けた人がそれによって成長したということです。成長しなければ、教育の意味は発見されないし、認知されないし、言葉にならない。――



これは人間だれしもが経験的にわかるものだと思います。自分にとって今まで教わってきたことが何だったのか判断できるのは、教わった時点から何年もあとになってからです。それを無視して、計画的にすべてが教育できるなどと考えることはあまりにも強欲なことです。ましてや心的成長の過程を数値化してそれに依存しようとしてしまう人がいたとしたら、その人は自分の人生をもう一度振り返るべきでしょう。

しかし、計画性と数値化から教育は逃れることができません。私たちは自分の将来の行動を他人に理解してもらうとき計画を立てて提案します。また、他人に何らかの結果を説明するとき、少なからず数値をつかいます。計画と数値は他人から合意を得るのにとても便利なツールです。それはビジネスの場でも教育の場でも同じです。「うちの子はどんな教育を受けて、どんな風に育ったのかしら」と気にする保護者の方や、「あのクラスの先生はどんな教育をしていて、子どもたちはどのように育つのかしら」と考える管理職、または「この学校はどんな教育をしていて、どんな結果が得られてるのだろう」と考える役所の人など、様々に関心を寄せる人がおり、その人たちの合意を得なければならないのが今の教育です。

現場の教師が主張しなくてはならないのは、一応の計画は立てられるけれどそれ通りにいくとは限らないこと、また一応の結果は出たけれどその結果だけでは成長過程すべては捉えらないこと、これら二つのことだと思います。責任逃れのように聞こえるかもしれませんが、それだけ人間の成長とは難しいものなのだと万人が理解するべきです。








④現場の声(この辺から話がわけわからん方向に向かいます)

内田氏も氏の声明で述べていますが、上記のことは実は多くの人が薄々感じつつも、なかなか公言できていません。それぞれの立場、それぞれの権威などの問題からなのでしょうか。

もう少し教育の現場というところで掘り下げていけば、上記の事(特に③)に関して教師はあまりにも発言力を持っていません。現場の教師は相手を選んで話さなくてはならないからです。例えば、保護者から「うちの子はどうして成績があがらないのでしょう。なんとかしてください。」と言われたとき、「成績を上げることが学ぶ力が備わるということではありませんから、まずはあなたの考えを正してください。」などとは到底言えません(こんな言い方は乱暴すぎますが、本心はこのように思っている教師はたくさんいるはずです)。また、管理職に「あなたの教え方は私がいままでやってきたこととはだいぶ違うわね。私の教育方針とは違うから直して頂戴。」と言われたとき、「大変失礼ですが、私は○○ということを学んで、○○の用に考えた上で○○しました。よろしければ先生のお考えをお聞かせください。」と言っても、「生意気いってないで私の言う通りにしたらいいの。」などと一蹴されます。また管理職は管理職で学校の教育方針として数値を公表しなければならないというジレンマも持っているはずです。教師の本心は、それが正論であったとしても、社会の中でうまくやっていかなくてはならないということのために抑制されています。

こういったオフレコの話というのはなかなか世に出回ることは無いと思いますが、事実、数値に支配されてはいけないという思いとそれでも数値を示さなければならないという葛藤、事実を伝えたいけれど伝えられないというジレンマが現場にはたくさんあります。こんなことは社会に出ればどんな職業であっても常にあることです。しかし、この葛藤がつらい・・・心が折れそうになる。Am I only a selfish brat...orz






もう夜を通り越して朝です。思考も停止し始めて何を言っているか分からなくなってきました。ここらへんで自重します・・・。

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