Thursday, January 12, 2012

Maximizerの憂鬱

ただテレビを眺めたり、散歩をしたりと骨を休めていたこの数日間ですが、今朝起きてみると急に背中が痛くなり、息をするのもつらいくらいに痛くなりました。私の旧友がカイロプラティックをしているので施術をしてもらいましたが、「もっと運動しろ」と言われました。休みすぎも良くないみたいです。

最近は心に休養を与えるべく、何も考えない生活を送ろうとしていました。正月は「家政婦のミタ」を全話見たり、ホームレスであったLiz Murrayのドキュメントを見たり、映画”The Pursuit of Happyness”を見たり、急に思い立って福岡市内を散歩したりしました。

数日間いろいろな人に会ったり、様々な人にまつわるエピソードを聞きましたが、たくさんの人が苦境から立ち上がったり、立ち上がろうとしていたりし、その人たちのエピソードを聞きながら励まされました。どうやら私よりもつらい人生 を送っている人たちは多くいるようです。ユング的な考えからすれば、病が人それぞれに個別であるように、「つらさ」も人それぞれに個別で優劣のつけようは ないのでしょうが、少なくとも私はまだマシだと思えるようになってきました。


多くの人に会う中で、最近繰り返し思うことは、他者から攻撃されて心の傷を負う人があまりにも多いということです。そしてこの攻撃を受けている人がいることを、私は深く悲しみます。

どうして人は他者を攻撃するのでしょう。攻撃する人とはどんな人なのでしょう。攻撃を逃れ、また攻撃しないためにはどうしたいいのでしょう。以下は私の考える見解です。見解は、①攻撃とはなにか、②人が攻撃するのはなぜか、③どうすれば人は攻撃しなくなるか、④攻撃する場面と攻撃しないための方法、⑤提言、で構成されています。



①攻撃とは

私が主張する「攻撃」:
  • 人が他者を物理的攻撃によって、身体的に危害を負わせること。
  • 人が他者をあらゆる方法によって、精神的に危害を負わせること。
「攻撃」の前提条件:
  • 意図して他者を傷つけようとすること意思があること。

②人が人を攻撃するのはなぜか
  • カントの"Zum Ewigen Frieden"(『永遠平和のために』)
  • ホッブスの"Leviathan or the matter, forme and power of a common-wealth ecclesiasticall and civil"(『リヴァイアサン』)
大学学部の授業で哲学や教育原論の授業で必ずと言って良いほど出てくるこれらの書にも書かれていることですが、人間は自然な状態に戻してしまうと互いを殺しあったり、戦争をしたりと、常に人を攻撃する本質を持っていると考えられます。私も、この主張には経験的に納得します。


③どうすれば攻撃しなくなるか

上述した主張の中で鍵となる概念は「他者の存在です」。 
乱暴に言ってしまえば、他者の存在さえなければ、人は人を攻撃することはなくなると私は考えます。これは世の中の人間のうち、自分以外をすべて消し去るということです。しかし物理的にはどう考えても実行不可能ですから、武器を持って周りの人間を殺して回るということは無意味かつ究極的愚直です。あくまでも物理的ではなく、精神的に消し去るということです。つまり、攻撃したいと思うようにならないようにすることです。つまり人の嫌な部分を見ないようにしたり、他者と自分を比較するのをやめたりといったことです。

 (注:私は人を物理的に攻撃することを憎みます。ましてや自己利益のためだけに他人の命を奪うことには嫌悪間をいだきます。さらに、人間とは善悪双方に介在する存在(①)だと考えます。故に、悪の部分さえなければ(②)善になる(③)ということです。
 
 ①人間=善+悪
 ②人間=善+(悪-悪)
 ③人間=善


 ということで、他者を消し去ってゼロにするよりは、上記のように、他者の悪を取り除く方がより自らの利益になると考えます。語弊のないように申し上げますが、悪を取り除くということは決して他人の頭を開いて脳に物理的操作を加え悪いことを考えられなくするということではありません。私が考える悪とは人を妬み陥れようとすることです。それ以外にも悪についての定義は存在しますが、ここでは言及しません。)


④攻撃する場面と攻撃しないための方法

まず、攻撃をするときの場面について考えます。私は、人が人を攻撃する場面は二つに分けられると思います。
  1. 人に攻撃されたから攻撃をする時=防衛本能による攻撃
  2. それ以外=うらみ・つらみ・ねたみ・報復の感情による攻撃
そして、1と2の場面に対してそれぞれとるべき方法は、
  1. 防衛本能による攻撃→第三者・立法・行政に任せる
  2. うらみ・つらみ・ねたみ・報復・自尊の感情による攻撃→自分に必死になる


1.の場面についてですが、これは自分が殺されそうになったとき、民事的に誹謗中傷されたりなどしたときです。これに対しては、社会的権利が侵害されたということになるので防衛する余地があります。しかし、あくまで防衛ですから、報復という感情があってはいけません。報復をするとなれば必ず新たな争いが生まれますから、そういったときは必ず立法・行政に任せるべきだと思っています。

2.に関してですが、これには人間の攻撃欲とも呼ぶべき本質的姿が隠れています。例えば、「あいつは顔が良くて頭もいい、運動もできる、モテる、だからむかつく。だから仲間はずれにしてやろう」といったような馬鹿な小学生的考えに始まり、「むしゃくしゃするから悪口をいってやろう」とか、「おもしろそうだからいじめてみよう」などといった欲です。これは誰しもが持っている感情だと思います。そしてこれを恥じる人も多くいると思いますし、よって悩まされている人もいるはずです。こうした感情を抑えるためには、自己を見つめ、自分に必死になって生きようとする姿勢を養うことが大切です。



⑤提言

私が提言したいのは、「自分に必死になっている人」が世に少ないということです。私がここで言う「自分に必死になっている人」というのは、自らの存在意義を己の直感に従って問い続ける人のことです。これに対して、自らの存在意義を他者との比較から問うている人は、私は「他人に必死になっている人」と呼びます。

例えば、自分のやりたいことが見つからず、成果が出ず、むしゃくしゃしているときに、幸せにしている人を見ると、その人をうらみ・つらみ・妬みたくなってきます。こうした人は、いわゆるMaximizer(追及者) 型の人に多いといわれます。Maximizer型の人は、どうやったら生き残れるか、どうやったら利益を出せるかなどを理詰めで考えることが得意な場合が多く、他者と自分を比較することが得意とされています。よってこの人は「他人に必死な人」と呼べるでしょう。

他者と自分を比較しながら価値を見出していく人ほど、自分の内から沸きあがる価値観に鈍感な人はいないと考えます。常に他者の価値に依存し、常に他者の価値にすがっていれば、他者の価値は流動的ですから、常に回りに合わせようとして左右され、生き方を定めることがうまくいかなくなってくると考えます。 そして、自分の好きなもの、やりたいこと、生き方などが定まらず、自己実現欲求が不満になってくると、欲求不満を解消するために今度は他人を攻撃しようとします。なぜ他人を攻撃するか。それはその人が他人のあってこその人間だからです。

これに対して「自分に必死な人」はどうでしょうか。「私は○○が好きだから○○をする。」と考える人は、やりたいことが生きる目的になっています。つまり、周りの人間が何を言おうが、その人に生きる目的があるということです。最低限衣食住が確保されていれば、その人は幸せなわけです。しかも、自分の好きなことに集中して生きられるわけですから、乱暴に言えば他人の生活なんてどうでもいいわけです。他人の生活がどうでもよいとどうなるか。それは他人の生活にうらみ・つらみ・妬みの感情を抱かなくなるということです。

このように、「自分に必死な人」は回りに目をくれる暇が無いわけですから、他人を攻撃している暇など無いはずです。しかし、世の中(特に日本)は、周り人間の生活と自分の生活を比較したがります。これが、社会的抑制として良い方向に向いている(治安が良いなど)という利点もありますが、他人の依存しすぎてしまう人間をつくるという弊害も生まれていないでしょうか。

今、社会で必要とされるのは、人を攻撃する人ではありません。人と比べてどうやって生き残っていけるか考えられる合理主義者でもありません。自分の心に湧き上がる喜びや楽しみを追求しようとする人です。そういった人たちを育てるような教育、保護するような社会システムが必要であり、行政・教育・国政に求められています。

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