Monday, September 3, 2012

民間の英語教育から考えること

久しぶりの投稿ですが、変わらず否定を恐れず批判的・建設的な提言を忘れないよう心がけます。

民間の英語教育とは


ここで議論の対象とするのは「民間の英語教育」です。「民間の英語教育」とは、公の教育機関(公/私の学校教育、すなわち幼・保・小・中・高・大)を除く団体で、民間の経営団体(学習指導要領の準拠しない教育を行う団体)が執り行なう英語教育を指すこととします。

民間の英語教育の特徴


筆者の定義に従いますと、民間の英語教育の特徴は大きく、
1.学習指導要領に準拠しない。
が故、
2.個別の指導方法を持つ
3.個別の経営方針を持つが故、個別の指導目的・目標と指導対象(指導を受ける人)を持つ

の3つの特徴を有しています。このことから、公教育とは違った良・悪の両側面を持つこととなるでしょう。

良い側面:
●学習指導要領にとらわれることがないので、学習指導要領では補完しきれない内容・技術を遂行することが出来る。
●ユニークで個に合わせた指導方法が期待できるため、公教育で学びきれなかった内容や公教育で取り扱われなかった内容を指導することが出来る。
●ユニークな指導方法を行うことが出来ることから、個に合った学習方法を提供できる可能性がある。

悪い側面:
●公教育ほどの教科教育研究(内容・方法共に)がなされていない可能性がある。これに関しましては、公教育以上の研究を行っている団体もあります。例えばベネッセ・東京言語研究所・出版社関係の私設団体などがありますが、多くの団体は豊かな研究を継続的に行っていない可能性があります。
●独自の経営方針を持つため、その方針から逸脱することができない。例えば資金調達が目的であれば、金にならない内容は興味の対象にならない。具体的には、金が必要だ→ニーズは何か→TOEICだ→TOEICの点数を上げるためだけの指導法を行おう→それ以外は金にならないからやめましょう、といったような論法になる。
●公教育を悪として捕らえ、公教育に否定的な印象を持つ。よって、公教育が見落としている様々な知見を還元しない。最近では全国英語教育学会などに積極的に参加する方も増えているようですが。

以上の特徴と側面は十分な検討がなされていない可能性があるため、より実りのある議論が必要です。ご意見お待ちしております。

様々な側面が混在する実例


 現在、筆者は民間企業が運営する英語教育に従事しています。そこでの事例を大まかにお話します。

 運営機関Aは大学生に授業以外で英語を教える機会をつくっています。運営機関Aは、民間企業Bに講義を依頼し、その民間企業Bは依頼のあった大学に講師を派遣して講義をします。
 講座は「○○試験対策英語講座」と銘打っており、これは運営機関Aが名づけたものです。一方で、民間企業Bは「試験よりもコミュニケーション力向上」という指導方針の下、「使える英語」を目指すために会話重視の講座を行っています。
 また、講座は講師のみが行うのではなく、学生リーダー(大学生のバイト、年代は2・3年生が中心、所属は様々な学部)が講師の変わりをするという機会もあります。一週間に一回ずつ、講師と学生リーダーが交代で講座を運営します。狙いとしては、教える側も教わる側も学生同士で親近感が持てるということでしょう。学生リーダーの講義では、学生リーダーたちが自ら創ったアクティビティを用い、楽しみながら英語が話せるように運営します。もちろん、著名な大手海外出版社が出版した教材を使い、リスニングやリーディングの対策も行います。


研究を大切にしよう

 この講座の中には、良い側面と悪い側面がいくつか混在していますが、今回focusしたいのは、学生が英語教育について深い知識を有さず、指導も受けてもいないのに、言語活動(上記の「アクティビティ」)を身勝手に創造し実践してしまうことです。
 上記の具体例の中には少なからず次のような問題があります。

 ・コミュニケーションとはなんなのかが明らかになっていない。
 ・英語に関して深い知識を有さないものが、アクティビティを創造することは軽率である。

 現在までに日本の英語教育史の中では様々なアクティビティがあったはずです。言語学・言語心理学・教育学が貢献した成果から教育学が様々なアクティビティをつくったはずです。それらを学習せずに、自分たちの創造だけに頼ってもいいのでしょうか。

 少なくとも、英語教育に従事する上では、英語教育史、言語学、哲学、心理学などの学術分野が挙げてきた成果を勉強するべきではないでしょうか(例えば、「コミュニケーション」を知るには語用論や哲学、「アクティビティ」を創るには語用論、哲学、教育史、言語学、心理学に加えてありとあらゆる学問)。

公教育はどうなのか、民間企業との協力体制はあるのか


 上記のように、教科教育研究を十分に行わずにいる民間企業がある一方で、公教育はどうでしょうか。公教育の人からすれば、研究も行わずに新しいアクティビティを創るのはナンセンスだとか、公教育の方が十分に研究を行ったうえでのアクティビティを利用しているだとか言う人が多いのでしょう。
 しかしながら、過去の研究成果に安住し、過去の研究や慣習がすべてだと信じきっている教師もいるのではないでしょうか。いや、むしろ自分が採用しているアクティビティの効果を疑わず、盲目的にアクティビティを行っている教師もいるのではないでしょうか。
 公教育も、より新しい、より楽しく効果のある活動を生み出し続けようとする民間企業に見習わなければならないところもあると思います。
 今まで積み上げてきた学術的貢献をないがしろにすることは、常にゼロから教育を考えているようなもので、一向に進歩しないお遊びになってしまうと筆者は考えます。そうした意味では公教育と民間企業は共に教科内容、方法論などの見識を情報交換しつつ、互いの住み分けされた世界に閉じこもらない姿勢が大切だと感じます。

 果たしてこれは実現可能なのか、という疑問は永遠に解決しないでしょうが、解決のために一歩を踏み出す人がこれからもへ続けることを願ってやみません。

Tuesday, February 28, 2012

バイトと責任

論文を読んでいると、その内容をうまく理解できていないことに気づくことが多くある。そうなるともう終わり。集中していない自己に気づくことで集中していないことがわかる。英語の論文を読んでいるとことさらである。

私は日本語で思考するほうが得意なので、英語で論文を読んだ後に日本語を使うと、脳が水を得た魚かのように動き出す。しかもそれが論文や研究のことではなく、より一般的な事柄やどうでもいい絵空事であればあるほど、脳内エンジンが一気に回りだす。どうやら今がその時のようだ。

無駄にエンジンを回すのはエコではない。脳も車もだ。よって、いかにくだらない事柄でも、脳の回転数が上がったときのアイデアは文字にして保管しておくべきだ。

今日はその文字化したアイデア(というか考え)の一部を、これからワークメイトとなる人たちと共有するためにもブログに上げる。

仕事と責任

仕事をしている人は、多かれ少なかれ皆自分の仕事に責任を負っている。とくにその仕事が好きで、自分の仕事に誇りを持っている人は、責任を負うことを苦とせず、むしろ責任がやる気につながっている。一生懸命なことはいいことである。仕事の効率・質・生産性が向上するからである。しかし、自分が負っている責任を今一度見返し、必要の無い責任まで背負いこんでいないか見直すことも大切である。なぜなら、本来追うべきでない責任を負うとき、人の心は無意識の内に疲労困憊していくからである。

例を挙げよう。

A君は大学1年生。アルバイトで塾講師をはじめることにした。理系の学部に進学したが、英語を教えることにした。
A君はやる気だった。はじめは得意ではなかった英語だが、受験をするうちに幾分か得意になり、英語を勉強することのつらさや問題が解けたときの喜びをたくさん経験したので、その思いを後続の受験生に伝えたいと思っていたからだ。さらに、自分の英語力の向上にもつながると思ったからだ。理系の英語は需要が高い。日本の理系技術は世界から見てもトップレベル。その技術を世界に発信するためにも、英語は不可欠だ。A君はそうした思いを旨に、自らも勉強を怠らず指導に励んだ。

塾のシステムは次のようになっている。講師が数人の生徒を受け持ち、個別で指導をする。また教材は塾の方で用意されており、その教材に則って勉強をする生徒がわからない問題に直面したとき、講師が適宜説明をするといったものだ。

生徒の「わからない」に対応するため、A君は日ごろから良く勉強をしていた。また、A君は教える内容や、自分の発言にも注意を払っていた。自分の教えることの一つひとつが生徒の知識になるからだ。

塾講師になってからしばらく経ち、受験シーズンに入った。自分の生徒たちが受験をしていく中で、ある程度自分でも「教えることの責任」を感じるようになっていた。

そんなとき、自分が担当していた文系の英語系コースを受験した子の受験結果が耳に入った。

不合格

A君は責任を感じた。(自分の指導していた子が受験に失敗したときの教師の感覚は言葉にし難いものがある)。そして自分が本当にこのまま指導をしていっていいのか迷ってしまった。そして迷う中で、生徒との接し方、自分の知識の少なさをずっと後悔していた


責任の分析

A君が責任を感じてしまうのはわからないでもない。しかし必要以上の責任を負うべきではない。以下は分析結果である。

1.アルバイトであること
そもそも塾講師のアルバイトは生徒の成績向上に責任を有さない。教材に沿って勉強する学生に適宜補足説明をすることが契約条件。アルバイトの義務は契約条件を守ること。A君が塾講師として適切だと思ったから塾はA君を採用したわけで、仮にA君の指導力が不足しているとするならば、塾はA君に解雇を要求するはずである。解雇要求がないのだから何も気にする必要は無い。

2.自分の発言に注意を払っていた+不合格
教えることになると良く付きまとうのが教える内容の正確性である。確かに、教える内容は正確でなければならないし、方法も正確でなければならない。しかし完全である必要はなく、また完全であることは不可能である。さらに、生徒が教えたことをすべて覚えているとは限らない。いや、塾に行くだけで勉強ができるようになると考えているアホもいるくらいだから、案外家で勉強をしない生徒だったのかもしれない。

3.文系の英語コース
そもそもなぜA君が文系の子を持たなければならなかったのか。文系の英語専門の講師を雇えよ、管理職。システム管理者が悪い。

4.迷う中で・・・悔いていった
悪い思考は連鎖し、必要以上に拡大・拡散するもの。鬱傾向にるので、開き直るべき。


結果のまとめ
  1. 生徒の成績向上(受験の勝敗)に責任を持ちすぎである。バイトはそんなの考える必要ない。
  2. 指導者のモデルを高く持ちすぎである。A君が完全な指導をできるわけがない。そして生徒がすべてを覚えているわけではない。
  3. 文系コースを受ける子がA君の担当になっているのが間違い。システム管理者が悪い。
  4. 悪い思考は連鎖する。直ちにポジティブに切り替える。もっとも簡単な方法は開き直ること。

一番大切なこと

一番大切なのは楽しく生きていることである。安定した心で幸せに生きなければ、世の中まったく面白くなくなってしまう。心が安定していなければ、指導だっておろそかになる。変に責任を負ってしまうと、心がその重さに耐え切れなくなってしまい、心が乱される。鬱の人のように行き過ぎた考えになってしまえば、最悪死をも想像してしまう。自分を責めない。それが大切。

責任は取るべき人が取るもので、取る必要の無い人は取らなくていい。A君の場合、もし生徒の親から訴えられて責任を取ることになったなら、塾の管理職が責任をとればいい。A君は開き直って、「俺はやるべきことをやって金をもらってる。それ以外の契約は結んでいない。故に生徒の合否は関係ない。」と思っていればいいのである。

仕事をがんばればがんばるほど、余計な責任を負っているものです。自分がその仕事を好いていれば、なおさら自ら背負い込んだ必要のない責任に気づかなくなってしまいます。 一度立ち止まって、よく考えて見てください。


A君、君の本務は学生でしょうがw
(ちなみにA君は私の知り合いです。実話でした。)

 おしまい

Friday, January 27, 2012

ダメ人間な自分の生活

普段の生活スタイルを記述して分析します。

普段の生活スタイルによって脳の働き具合に影響があると思ったので、ここ数週間の分析をしてみました。日によって違いますが、だいたい以下に記述する感じで二分することができます。

スタイルには自分が理想とするパターンと、理想としないパターンがあります。



自分の理想とするパターンの場合

AM7:00
起床―(目覚ましを5分後にかけ直しまた寝る。)

起床2―(目覚ましかけたっけ?と思いなおし時計を見る。ちょうど目覚まし(2回目)が
なるのでゴソゴソしながら起きる。)

AM7:30 
風呂に入る―(朝しか入らない。ちなみにシャワー派。20分は入ってるからガス代が
やばい件)

服を着る―(ヒートテック・下着・靴下、以外はいつも数着を着まわしている。)

AM8:00 
トイレに行く―(出るまで出ない。)

AM8:30 
バイクにまたがる―(駐車場から押して出て、近くの道路で暖気開始。40秒から1分
で暖気完了。冬は3分くらいしている。)

後方確認・出発―(家から出て左・右・まっすぐ・左・右)

AM9:00
大学図書館に到着―(中央図書館2階南東個別学習スペース、一番窓際に座る。)
 
本・資料・論文などをまとめる。

AM10:30

朝食兼昼食

以降夜まで
本・資料・論文などをまとめる。

PM8:00
夕食

以降AM0:00まで
帰る―(着替えて、花の手入れをしたり、バイクのメンテ本を読んだり、メールチェックをしたりします。研究のことは一切忘れるようにしています。)



自分の理想とするパターンでない場合の日

AM7:00
起床―(目覚ましを5分後にかけ直しまた寝る。)

起床2―(目覚ましかけたっけと思い、1時間以上寝過していることに気づく。普段より
            遅いからあーもういいやと思う。また寝る。)

起床3―(あーもうやる気しないと思って起きる。)

AM10:00
PCの電源を入れる―(twitter,e-mail,facebookを確認→変化なし→ちぇっ→youtube

腹が減るが食べ物がない―(外に出るのが面倒なので腹が減っていないと思いこむ。)

PM1:00
風呂に入る


PM2:00
暖かくなって昼寝しちゃう。

PM5:00
起床4。本を開こうとするがyoutubeの魔力にはまる。

ダメ人間だと思い込む。

普段の生活の失敗談を思い出してふさぎこむ。

余計ダメ人間だと思い込む。

啓発書や啓発関連のブログを見る。

ギター弾く。

AM3:00
明日からがんばろうと思って寝る。




ライフスタイルの分析


私の場合、自分の理想とするパターンの生活スタイルを送れていない日は、概して体たらくな自分を自己言及し、落ち込んでいます。ですからその発言を、今、冷静である自分を持ってして自己言及の自己分析をしてみたいと思います。






自己言及の自己分析

普段より遅いからあーもういいや :完璧主義になるなよ。別に普段起きる時間から数時間し
かたってないじゃん。まだ間に合うだろ。はやく動きだせよ。

あーもうやる気しない :変な言い訳する暇があるならさっさと勉強しろ。

youtube :あーそれを開いちゃったら終わりだね。うん。もう無理だよ。youtubeの魔力は自分じゃ
断ち切れないからね。いっそネットにアクセスできないようにしたら?

腹が減っていないと思いこむ :飯を食わないと頭に栄養が行かないのは知ってるようね?知って
てなんで食べないの?余計アフォになるよ。

ダメ人間 :ダメと思ったらダメです。ダメじゃない。ダメじゃないと自己暗示をかけろ!

明日からがんばろう :今日からがんばりましょう。


完璧主義であることの弊害

完璧であろうとすれば、ひとつのミスでも犯すことができません。一つのミスを犯してしまうと、その後いくらでもミスを犯してしまって良いと思うからです。私の生活スタイルから分析するに、完璧主義であろうとするが故に負の連鎖が出来てしまっています。ですから、ひとつのミスを犯してしまったときに如何に「大丈夫。気にせず次のことに取り組もう。」と自分に言い聞かせるかが鍵になってきます。

意図的環境制約


私の場合、とにもかくにも家にいるとまったく頭が働きません。こういった場合、家から出て環境をけるという意図的な環境制約を用いる必要があると思います。図書館・研究室・ファミレス・公園などを利用して、一刻も早く自分の居心地のいい場所(だらけてしまう環境要因のある場所)から脱却する必要があります。


さて・・・
明日はどうなることやら。

Thursday, January 12, 2012

Maximizerの憂鬱

ただテレビを眺めたり、散歩をしたりと骨を休めていたこの数日間ですが、今朝起きてみると急に背中が痛くなり、息をするのもつらいくらいに痛くなりました。私の旧友がカイロプラティックをしているので施術をしてもらいましたが、「もっと運動しろ」と言われました。休みすぎも良くないみたいです。

最近は心に休養を与えるべく、何も考えない生活を送ろうとしていました。正月は「家政婦のミタ」を全話見たり、ホームレスであったLiz Murrayのドキュメントを見たり、映画”The Pursuit of Happyness”を見たり、急に思い立って福岡市内を散歩したりしました。

数日間いろいろな人に会ったり、様々な人にまつわるエピソードを聞きましたが、たくさんの人が苦境から立ち上がったり、立ち上がろうとしていたりし、その人たちのエピソードを聞きながら励まされました。どうやら私よりもつらい人生 を送っている人たちは多くいるようです。ユング的な考えからすれば、病が人それぞれに個別であるように、「つらさ」も人それぞれに個別で優劣のつけようは ないのでしょうが、少なくとも私はまだマシだと思えるようになってきました。


多くの人に会う中で、最近繰り返し思うことは、他者から攻撃されて心の傷を負う人があまりにも多いということです。そしてこの攻撃を受けている人がいることを、私は深く悲しみます。

どうして人は他者を攻撃するのでしょう。攻撃する人とはどんな人なのでしょう。攻撃を逃れ、また攻撃しないためにはどうしたいいのでしょう。以下は私の考える見解です。見解は、①攻撃とはなにか、②人が攻撃するのはなぜか、③どうすれば人は攻撃しなくなるか、④攻撃する場面と攻撃しないための方法、⑤提言、で構成されています。



①攻撃とは

私が主張する「攻撃」:
  • 人が他者を物理的攻撃によって、身体的に危害を負わせること。
  • 人が他者をあらゆる方法によって、精神的に危害を負わせること。
「攻撃」の前提条件:
  • 意図して他者を傷つけようとすること意思があること。

②人が人を攻撃するのはなぜか
  • カントの"Zum Ewigen Frieden"(『永遠平和のために』)
  • ホッブスの"Leviathan or the matter, forme and power of a common-wealth ecclesiasticall and civil"(『リヴァイアサン』)
大学学部の授業で哲学や教育原論の授業で必ずと言って良いほど出てくるこれらの書にも書かれていることですが、人間は自然な状態に戻してしまうと互いを殺しあったり、戦争をしたりと、常に人を攻撃する本質を持っていると考えられます。私も、この主張には経験的に納得します。


③どうすれば攻撃しなくなるか

上述した主張の中で鍵となる概念は「他者の存在です」。 
乱暴に言ってしまえば、他者の存在さえなければ、人は人を攻撃することはなくなると私は考えます。これは世の中の人間のうち、自分以外をすべて消し去るということです。しかし物理的にはどう考えても実行不可能ですから、武器を持って周りの人間を殺して回るということは無意味かつ究極的愚直です。あくまでも物理的ではなく、精神的に消し去るということです。つまり、攻撃したいと思うようにならないようにすることです。つまり人の嫌な部分を見ないようにしたり、他者と自分を比較するのをやめたりといったことです。

 (注:私は人を物理的に攻撃することを憎みます。ましてや自己利益のためだけに他人の命を奪うことには嫌悪間をいだきます。さらに、人間とは善悪双方に介在する存在(①)だと考えます。故に、悪の部分さえなければ(②)善になる(③)ということです。
 
 ①人間=善+悪
 ②人間=善+(悪-悪)
 ③人間=善


 ということで、他者を消し去ってゼロにするよりは、上記のように、他者の悪を取り除く方がより自らの利益になると考えます。語弊のないように申し上げますが、悪を取り除くということは決して他人の頭を開いて脳に物理的操作を加え悪いことを考えられなくするということではありません。私が考える悪とは人を妬み陥れようとすることです。それ以外にも悪についての定義は存在しますが、ここでは言及しません。)


④攻撃する場面と攻撃しないための方法

まず、攻撃をするときの場面について考えます。私は、人が人を攻撃する場面は二つに分けられると思います。
  1. 人に攻撃されたから攻撃をする時=防衛本能による攻撃
  2. それ以外=うらみ・つらみ・ねたみ・報復の感情による攻撃
そして、1と2の場面に対してそれぞれとるべき方法は、
  1. 防衛本能による攻撃→第三者・立法・行政に任せる
  2. うらみ・つらみ・ねたみ・報復・自尊の感情による攻撃→自分に必死になる


1.の場面についてですが、これは自分が殺されそうになったとき、民事的に誹謗中傷されたりなどしたときです。これに対しては、社会的権利が侵害されたということになるので防衛する余地があります。しかし、あくまで防衛ですから、報復という感情があってはいけません。報復をするとなれば必ず新たな争いが生まれますから、そういったときは必ず立法・行政に任せるべきだと思っています。

2.に関してですが、これには人間の攻撃欲とも呼ぶべき本質的姿が隠れています。例えば、「あいつは顔が良くて頭もいい、運動もできる、モテる、だからむかつく。だから仲間はずれにしてやろう」といったような馬鹿な小学生的考えに始まり、「むしゃくしゃするから悪口をいってやろう」とか、「おもしろそうだからいじめてみよう」などといった欲です。これは誰しもが持っている感情だと思います。そしてこれを恥じる人も多くいると思いますし、よって悩まされている人もいるはずです。こうした感情を抑えるためには、自己を見つめ、自分に必死になって生きようとする姿勢を養うことが大切です。



⑤提言

私が提言したいのは、「自分に必死になっている人」が世に少ないということです。私がここで言う「自分に必死になっている人」というのは、自らの存在意義を己の直感に従って問い続ける人のことです。これに対して、自らの存在意義を他者との比較から問うている人は、私は「他人に必死になっている人」と呼びます。

例えば、自分のやりたいことが見つからず、成果が出ず、むしゃくしゃしているときに、幸せにしている人を見ると、その人をうらみ・つらみ・妬みたくなってきます。こうした人は、いわゆるMaximizer(追及者) 型の人に多いといわれます。Maximizer型の人は、どうやったら生き残れるか、どうやったら利益を出せるかなどを理詰めで考えることが得意な場合が多く、他者と自分を比較することが得意とされています。よってこの人は「他人に必死な人」と呼べるでしょう。

他者と自分を比較しながら価値を見出していく人ほど、自分の内から沸きあがる価値観に鈍感な人はいないと考えます。常に他者の価値に依存し、常に他者の価値にすがっていれば、他者の価値は流動的ですから、常に回りに合わせようとして左右され、生き方を定めることがうまくいかなくなってくると考えます。 そして、自分の好きなもの、やりたいこと、生き方などが定まらず、自己実現欲求が不満になってくると、欲求不満を解消するために今度は他人を攻撃しようとします。なぜ他人を攻撃するか。それはその人が他人のあってこその人間だからです。

これに対して「自分に必死な人」はどうでしょうか。「私は○○が好きだから○○をする。」と考える人は、やりたいことが生きる目的になっています。つまり、周りの人間が何を言おうが、その人に生きる目的があるということです。最低限衣食住が確保されていれば、その人は幸せなわけです。しかも、自分の好きなことに集中して生きられるわけですから、乱暴に言えば他人の生活なんてどうでもいいわけです。他人の生活がどうでもよいとどうなるか。それは他人の生活にうらみ・つらみ・妬みの感情を抱かなくなるということです。

このように、「自分に必死な人」は回りに目をくれる暇が無いわけですから、他人を攻撃している暇など無いはずです。しかし、世の中(特に日本)は、周り人間の生活と自分の生活を比較したがります。これが、社会的抑制として良い方向に向いている(治安が良いなど)という利点もありますが、他人の依存しすぎてしまう人間をつくるという弊害も生まれていないでしょうか。

今、社会で必要とされるのは、人を攻撃する人ではありません。人と比べてどうやって生き残っていけるか考えられる合理主義者でもありません。自分の心に湧き上がる喜びや楽しみを追求しようとする人です。そういった人たちを育てるような教育、保護するような社会システムが必要であり、行政・教育・国政に求められています。

Tuesday, January 10, 2012

Alternative Approaches To Second Language Acquisition

そもそも英書を日本語に意訳してブログに掲載することは著作権の侵害にあたるのでしょうか。
さすがに一字一句すべてを完璧に訳してしまえば違反になるのでしょうが・・・ボーダーラインがわかりませぬ。

今、テーマ決めで行き詰ったので本を読んでいます。以下、今読んでいる本の紹介。



認知主義にとってかわる新たなSLA研究方法?

G.CookSeidlhoferは以下のように言いました。

言語は・・・
  • 生物学的なもの
  • 数学的なシステムを持つもの
  • 社会的要因
  • 個性や文化の表出
  • 対話の結果
  • 社会記号的存在
  • 母語話者の直感
  • 記憶の集合
  • etc
などと様々に考えられているが、どれも事実になりうるのだから、どれかを選ぶ必要なんてないじゃないか。(G.Cook& Seidlhofer, 1995, p. 4


さて、もし言語がこんなにもたくさんの要因で成り立っているのであれば、言語の「習得」も同様に様々な要因で構成されていると考えられます。しかし第二言語習得(SLA)の研究は歴史的に「認知」と呼ばれるものに焦点を当てる傾向がありました。そして結果を述べてしまえば、この「認知」という考え方(認知主義)はSLAの研究の主流の考え方となっており、ごく自然に、又まことしやかにSLAを説明する方法となってしまっています。

「こいつはおかしいな」と考えたD. Atkinsonさんは、認知主義的なSLA研究について探求し、且つ6つの研究方法(後述)と比較することで、認知主義を超える研究方法を模索しようと考えました。それらをまとめたのが、

本書 ”Alternative Approaches To Second Language Acquisition”です。

本書では、まず認知主義とSLA研究が歴史的にどのように進められてきたかについて紹介したあと

  1. The Sociocultural Approach to SLA: Sociocultural theory, SLA, and artificial L2 development
  2. A Complexity Theory Approach to Second language Development / Acquisition
  3. An Identity Approach to SLA
  4. Language Socialization Approaches to SLA: Social, cultural, and linguistic development in additional languages
  5. A Conversation-analytic Approach to SLA
  6. A Sociocognitive Approach to SLA: How mind, body, and world work together in learning

という6つの方法を紹介します。

ご興味がありましたら是非一読ください。





各章についてのまとめとコメントはまた今度。


つづく