Friday, December 16, 2011

考え方の整理①

ただひたすらに、なんの視点ももたずに論文を読んでいると、なにか難しい読み物をよんでいる感じがします。そのままひたすら読み続けていけば、最終的に我慢強さと幾分かの達成感は得られるかもしれませんが、研究という側面からは意味をなさない、と私は考えています。

しかし、今まさに私は視点を持たないまま論文を読んでしまっています。

このままでは、論文を読み進める視点どころか、ゆくゆくは内容を理解した気になってまったく理解できていないということになりそうなので、ここで一度頭を整理し、向こう数日に渡って研究の目的についていろいろと書き記していきます。

この記事にもついている「思考」のラベルでは、私の学術世界での恩師(勝手に仰いでいますが)に教わった研究に対する姿勢、ひいては物事の考え方をお伝えします。最近仲良くなった学部生さんの何人かからもリクエストがあったので、一大学院生の心もとない知識ですが、ここに晒したいと思います。

(記事内の注釈に関して:読んでいる最中にあちらこちらに目が飛んでしまうのは私が個人的に嫌いですから、注釈をページの下部にはまとめず、そのままの流れで小文字にして記します。)



今回の記事では、大学院とはどういうところか、研究とは何かという疑問を基に、個人的に大切にしている「研究にはどういった姿勢で臨むべきか 」ということを書きます。



1.大学院って勉強するところ?

私は現在大学院で研究生活を営んでいます。そこで友人によく言われるのは「そんなに勉強して何が楽しいの?」です。私も初めは研究=勉強(?)と解釈していました。ですから私が学部生の時は、「大学院に行ったやつは就職できなかったんで、とりあえず就職活動の延命措置をしている」と思っていました。もっとわかりやすく言えば、「就職できんかったやつは大学院でいろいろ模索しながら職を探せるし、修士・博士の称号もついてくるし儲けもんじゃん。だから行くんじゃん。」と思っていました。今考えれば、そういった目で人を見ていたことや自分の軽率な考え方を深く悔いています。先輩方、ごめんなさい。

結論を言うと、大学院=研究をするところです。


2.研究って何?

上でもほのめかしましたが、研究とは勉強ではありません。勉強でないなら何なのか。私の恩師の言葉を借りますと、研究とは謎を解くことです。(注1)

(注1)わたしは学部生4年の時に言語学の授業を取り、そこで学んだ言語学の自然科学的な考 え方というものに感化されました。ここでの研究に対する考え方はその時に学んだものです。私の知らない研究分野はたくさん存在しますし、もしこのういった考え方が通用しない研究があれば、是非ご教授いただきたいと思います。

整理すると、研究=謎を解くことです。

(もちろん価値のある謎を発見するだけでも研究といえるでしょう。)


3.謎って何?

人は何かしら普段から不思議に思っていることがあるはずです。
例えば、
  • なぜすべてのものは地面に向かって落ちていくのか。
  • なぜ人間は怪我をしても多少の傷であれば回復するのか。
  • なぜ時間と共に明るい時と暗い時が訪れるのか。
  • 私たちの祖先は一体なんなのか。
  • なぜ、子供は短期間で自然にその子供がいる環境の言葉を獲得していくのか。
  • etc

これらの例のように、我々は、よく考えてみれば日常の何気ないことにいろいろな疑問を抱いている(いた)はずです。もう少し詳しく説明すると、今現時点で、科学的に説明しきれない事実が身の回りにはたくさんあります。上のいくつかの例はすでに科学的な事実が大部分で証明されているものもあります。しかし一番初めにその謎が注目された時点では、まったくもって説明がつかなかったはずです。

この謎を解き明かすことができれば、それは何にも変えられない喜びとなる(注2)と私は思います。

(注2)簡単に意思表明をしておくと、私は「謎を解くことなんかより金に興味がある。」や「知的好奇心なんかよりどうやって食っていくかの方がよっぽど大切だ 。」、という考えは、「学び、発見したい」という考えの二の次にしています。金・ビジネスについての方がより興味があるとお考えの方は、どうぞその考えを尊重してください。確かに、お金は大事です。私は、金儲けをしたい人に対して全く批判をしませんし、むしろそうしたビジネス的な考えも豊かな社会には必要だと思います。私もビジネスが好きであったならば、しこたま金を稼ぎまくろうとしているでしょうし、後にも書きますがとりあえず「食うこと」は大切です。が、私個人的には肉体的な空腹感よりも心の空腹感を優先して満たします。
 
根本的に研究=勉強と考えている人はいますぐにその考えを正すべきだと思います。「金儲けの方が好きだから研究はしない」のであれば、それ は良いのですが、「もうちょっと勉強しに大学院に行く。」や、「勉強していれば研究職につけるだろう。」とお考えの方には、真っ向から全面否定します。大 学院はあくまで研究をするところですし、博士号をとっても食いはぐれる人はざらだからです。大学院生として、現時点ではそのように考えています。

もう一度整理すると、謎=今現時点で科学的に説明がついていない事実です。

研究と勉強、科学的な事実などの考え方については、以下のサイトがわかりやすいです。(私はこのブログ主さんのことは良く存じ上げていませんから、勝手にリンクを貼って良いものかわかっていません。万が一警告があった場合は即座にリンクを解除します。)
発声練習:研究と勉強の本質的な違い
発声練習:勉強が好きな人は修士がつらいかもしれない
発声練習:メモ


4.謎を見つけるには?

私の場合、常に「なぜそうなるのか?」と考える習慣を持つようにしています。こうすることで、日ごろから様々なものに知的好奇心(これも恩師の受け売り)をもつことができます。知的好奇心には生まれ持った気質も関係するとは思ってはいますが、「なぜそうなるのか?」を問い続けることで、その思いも断続的に強くなっていくように感じられます。

正し、ただ座って、厨二病全開で妄想にふけっているだけでは謎は生まれてきません。また、日常生活で常に「なぜそうなるのか?」という問いを持ち続けることも大切ですが、それよりも大切なことは読書です。自分の興味のある分野の書物を読みまくり、その中で解明されていない謎を探索することが必要です。厨二病を洗練させて研究対象とするために読書を用いるわけです。少なくとも、凡人である私の厨二病は大よそ研究になりそうな考えではないでしょうから。

厨二病はあくまで研究への第一歩です。言いかえれば、心の底から生まれる謎に対する好奇心の産物が厨二病だと思います。そして好奇心の産物を、読書を用いてより深く調べ、探索し、わかっていることとわかっていないことを明確にしていき、研究への足掛かりをつくることが必要だと思います。私は、この謎を発見する足掛かりをつくることを勉強としてとらえています。

整理すると、研究としての謎の発見=勉強=知的好奇心+(探索的)読書

5.好奇心に理由なんかいらない!

アインシュタインなんかもそうだったと思うのですが、有名な研究者の研究というのは没後に評価されることが多いと聞きます。

たぶん研究者に対する一般的な社会の捉え方は、社会に役立つ研究をしている=良い研究者、そうでなければ悪い研究者、と考える人も少なくないと思います。しかし、社会に役立つ研究というのはそんなに簡単にできるものではないと思います。こんなにも変動の激しい社会を前もって予測するのは非常に難しいことですし、できたとしても稀です。その変化に合わせて、現在社会にとって価値のある研究成果を公開していくのは大変な作業だとおもいます。

飛行機だって、最初は今では考えられないようなスペックだったわけで、時間をかけて今のようなジャンボジェットになったわけです。たぶんライト兄弟も、昔は空を飛ぶ鳥を眺めながら、「飛びてぇ」と漠然と興味を抱いたはずです。そのちょっとした好奇心が、時間をかけて世の中を豊かにしたわけです。

ですから、「今現時点で意味のある研究」を求めることほどつらいことはないと思います。やっていて詰まらないはずです。乱暴な言い方を恐れずに言えば、「そんなんはビジネスに任せてけばええんじゃ。」です。

知的好奇心に論理的必然性はいらないはずです。そんな義理はありません(恩師曰く)。自らの心から湧き出る知的好奇心によって、初めて生産性が生まれると思います。(これも恩師の受け売りです。)

私の知るある子どもがこんなことを言いました。4年生でした。
「物って温めると大きくなるって学校でならったんだ。でもそうすると、太陽であっためられてる地球って大きくなってるのかな。」
これこそ純粋な知的好奇心ではないでしょうか。
地球膨張説について早くから興味を持つなんて・・・この好奇心には感服しました。

まるで子どもが何でもかんでも知りたがるかのような姿勢が研究者にも必要だと思います。

整理すると、知的好奇心(興味)に論理的必然性は必要ない


6.それでも迫る「成果」の欲 orz

研究をしていると、やはり研究者を目指しているのだから「成果」が伴わなければと思ってしまうことがあります。この考えが本当に厄介です。まじでウザい!

上でもほのめかしましたが、「研究をするのであれば金や社会的な成功のことは考えない方が良い」というのが私の考えです。が、大学院での在学年数も定められ、社会人になって自分で稼がなくてはならないという切迫感にさいなまれ、論文の締切日も毎日着実に近づいてくる。こうした中で、いつの間にか「研究成果を出さなければ!」という思いに取りつかれ、本来の好奇心を忘れてしまいそうになることがあります。

こうした考えに取りつかれたとき、私はいつも恩師の言葉を思い返します。

  • 「君たちが簡単に研究成果をだせるとするなら、僕ら(教授)の立場がなくなるよね。」
  • 「そりゃ、中にはとびきり頭のいいやつもいるけど、だれもそんなことを万人に求めてないし、自分が頭良かったらいいのになぁって考えてるだけじゃ何も進まないよ。」
  • 「将来仕事につけるか不安?先が見えないのは当たり前で、見えると思ったら大間違い。」
  • etc
文字にするとなんだか威圧的な感じがしますが、とても温和な感じで話していると想像してください。学識字は温和でやさしい方が多いですw

こうした言葉を胸に、また素晴らしい先生方に支えられながら研究を進めていける私は幸せ者かもしれません。どうか今悩んでいる方、行き詰っている方は素晴らしい先生に巡り合えますように。そして決してひとりではないということもお忘れないように。愚痴ならこのブログへどうぞw

整理すると、心から湧き上がる好奇心を常に持ち、社会的な要請・論理的必然性は二の次にする。(注3)


注3:再度申し上げますが、生きていくことは大切です。故にお金も必要です。無謀な賭けはしないが、心から湧き上がる好奇心を忘れてはならない。これが私が現時点までに学んだことです。無謀な賭けをして痛い目を見たこともありますw

7.まとめ

私が上述したことをまとめると以下のようになります。

大学院=研究をするところ
研究=謎を解くこと
謎=今現時点で科学的に説明がついていない事実
研究としての謎の発見=勉強=知的好奇心+(探索的)読書
知的好奇心(興味)に論理的必然性は必要ない
(心から湧き上がる好奇心を常に持ち、社会的な要請・論理的必然性は二の次にする。)


注4:青は心の持ちようです。


8.参考までに

以下はほんの少しばかりですが参考になるHPおよび書物です。

HP
気持ちの面で支えになる学識者の言葉として、
発声練習:卒業研究・修士研究時の悪循環を防ごう(他)
学識者の述べる研究・仕事の方法として、
英語教育の哲学的探求2:知的仕事のABC
慶應義塾大学大津由紀雄研究室:大津先生のノート

書物:
研究中・勉強中に社会的な生きづらさを感じたら、

『生きる意味』, 上田紀之,  2005, 岩波新書

"The Purpose Driven Life: What on Earth Am I Here For?", R Warren, 2007, Zondervan    (日本語訳あり)

    『修養』, 新渡戸稲造, 2002, タチバナ文庫
 啓発書などは本屋に行けばいくらでも売っています。これらは私がビビっと来た本です。興味があれば読んでみてください。

Wednesday, December 7, 2011

memo1

L2ライティングに足を突っ込み始めて早2ヶ月。

L1ライティングだけでも大変な研究領域なのに、L2のライティング学習者、つまりmulti-competence(Vivian Cook)という厄介な能力を持つ学習者を研究対象を選んでしまったことに少し後悔。いや、厄介というのは研究領域が広すぎて何を研究すればよいのか中々絞れないという意味でです。

今興味があるのは

①日本のEFL学習者におけるライティング学習の社会的な位置づけ;諸外国とどのように違うか=descriptiveな研究

② ESL学習者とEFL学習者の目標の違い:ライティングの観点から=descriptiveな研究

③ライティング指導で何が教えられているか;何が教えられるべきかという問いに対しての再考察=descriptive and explanatoryな研究

④L2ライティングと論理力=explanatory

というところです。


こうして見てみるとdescriptiveな研究が多い。いや、これはたぶんどうしようもないことなのでしょう。なぜならGrabe(2001)の述べるような第二言語習得(特にライティング)においてのpredictive and explanatoryな理論を構築することは、SLライティングが様々な要因が複雑に絡み合ったL2学習者を対象にしているため困難であるからです。欲を言えばpredictiveな理論を作りたいのですが・・・今の知識と思考力じゃぜったい無理!です(・。・/

(ちなみにGrabe(2001)で述べられている理論研究の構想をささっと図でまとめた記事もあります。Grabe 2001)








研究は一超直入できるものではないですから迷っていても仕方ないですから、とにかく読みまくるしかないのですが・・・それにしても読む視点というものがほしいです。



いつも、

こんなんじゃあいつまでたっても論文書けねぇんじゃね?orz

と思ってしまいます。


とにかく主軸となる理論(親理論)を手に入れなければ・・・

ということで、これから読む本をとりあえずメモとして挙げておきます。んー、完全に自分のメモですね。スマソ



これから読む本:

JSLW学会誌20年分・・・ orz

Critical Applied Linguistics (Pennycook 2001)

社会的構造主義への招待 (Vivian Burr, 田中訳 1997)

Identity and Language Learning (Norton 2001)

Self comes to mind (Damasio)

Alternative Approaches to Second Language Acquisition (D.Atkinson)

『フーコー・コレクション(3) 言説と表象』(ちくま)

Grabe 2001

以下はOn Second Language Writing (Silva and Matsuda 2001)に収録された"Notes Toward a Theory of Second Language Writing"(W.Grabe)をまとめたものです。

記憶の整理のために載せます。


Grabe(2001)を読む

 この論文はL2ライティングの理論の必要性と、それまでに発表された理論に関する論文の系譜を綴ったものです。ライティングの理論の目指すべき形、過去のライティングのL1/L2理論の系譜、ライティングのモデルの系譜、目的・プロセス・成果に関するライティングの構造、ライティングの理論を構築しうる新たな代案の5つの章で構成されています。

ライティング理論の目指すべき形
 Grabeさんは、ライティングの理論を構築することは、広く周知されているcontexts(文献)から読み取れる実際のライティングプロセスの分析から研究者や教師を遠ざけてしまう可能性があり、加えてつかみどころのない一般概念や混乱に引き込んでしまう可能性もあると述べます。しかしながら、理論(つまりどのようにライティングを定義し、理解し、分析し、発展させるべきか)を追求することによってL1L2ライティング双方における研究、指導、評価の慣習を有効に編成する大要を構築することができると述べます。また、体系的な理論がなければ、研究や指導は個人的志向、社会的慣習、アイデアの再発想の歴史的蓄積にしかならないとも述べています。
 理論を構築する上での目標として、Grabeさんは次のような順序立てをします。(以下筆者による図)





 この目標を述べた上で、Grabeさんはこれまでどのような研究が行われてきたかを述べます。
 まずライティング理論の基礎的な研究としてBereiter and Scardamalia(1987)を挙げます。この研究は知識をそのまま書き出すknowledge tellingと文脈や読み手、文化やwritingの意図といった要因を統合し書き出すknowledge transformingに大別しライティングのモデル構築を行ったものです。しかしながら、たとえこのモデルが様々な予測を生み出すとしても、この研究の範囲では様々な状況下やタスク下に置かれた個人と集団のパフォーマンスの違いに説得力のある具体的な予測が立てられないと述べます。そして現時点(2001)では、より生産的調査、分析、指導へと導く理論が後世で出てくることを願うことしかできず、この生産的調査、分析、指導へと導く理論こそが、descriptive theoryからexplanatory theoryへと発展させると述べます。


 さて、この理論を構築する上で重要になってくるのはどういったことを調査するかです。Grabeさんは、その調査対象を簡単な言葉で述べます。

              To simply put, the goal is to describe what writing is; how it is carried on as a set of mental processes; how it varies (both cognitively and functionally) across tasks, settings, groups, cultures, and so forth; how it is learned (and why it is not learned); and how it leads to individual differences in performance.

 そしてこれを発展させ、具体的にどういった分野を開拓していくべきかを述べます。

              1. A theory of language.
              2. A theory of conceptual knowledge and mental representation.
              3. A theory of language processing (writing process).
              4. A theory of motivation and affective variables.
              5. A theory of social context influences.
              6. A theory of learning.


結果を述べてしまいますと、L2ライティングのモデルはこの論文が書かれた年から10年経った今でも確立されていません。

不完全ながらも体系的なモデルが二つあります。それはFlower and Hyes (1981)のモデルを拡張させたHayes(1996)Grabe and Kaplan(1996)です。双方のモデルは、結果として似たような形になりました。が、不完全なことには変わりありません。

Grabeさんはこれに対し、新しい代案として予測できないものを無理に予測するのはやめて、かえって将来のよりよりモデル構築のために情報を蓄積し分類していくことを勧めます。
 
              The goal would be to create a taxonomy of research on various aspects of writing performance.A taxonomic effort provides for more comprehensive coverage and allows for contradictions to exist together until further research resolves these issues. A conditions view also allows for certain constraining factors to emerge across a range of collected studies: It offers a way of noticing less obvious trends and patterns.

またGrabeさんは第二言語習得においてSpolsky(1989)が述べたことを引用し、writingの研究にも同じことが言えると言います。

              “My goal…will not be to establish a model of how language is learned, but rather to explore how to specify, as exactly as possible, the conditions under which learning takes place.”

論文の最後では、具体的な分類のカテゴリーを示唆しますが、ご興味のある方は本論文をお読みください。

Sunday, November 27, 2011

大阪秋の陣終焉

本日20時をもって、大阪府知事と大阪市長のW選挙が終わりました。

結果はニュースで御覧の通りです。御覧になっていない方は下記URLでも参照可能です。
http://www.city.osaka.lg.jp/contents/wdu240/shicho_chiji/


おいしいお酒で祝杯をあげている当選者もいれば、苦い酒を飲む落選者の方もいます。が、とにかく立候補者全員にお疲れ様でしたと言いたいところです。

さて、今後大阪府、大阪市共に政治が大きく変わることになるでしょう。いや日本全体が変わっていくでしょう。独裁政治になるか否か・・・世の中がよい方向に変わるのであれよいのですが。


投票率は前回に比べ17%程上昇しています(大阪市内計)。最終投票率は計60.92%です。これだけ話題を呼び、且つ投票率が跳ね上がったのはなぜでしょう。

候補者のマニフェストの相異による内容的な対立が関心を呼んだのか。演説など選挙期間中の活動内容によるものなのか。はたまた橋本氏のタレント性によるものなのか。

いずれにせよすべての要素が絡んだ結果ですし、私が分析する義理はないのですが・・・問題は、今後我々有権者が当選者の政策実行に関してどう判断するかにある思います。

なんの疑いもなく、政治家の政策を鵜呑みにしてしまってはよい社会は築けません。今後、もし政策内容に深く関心を持たず投票してしまった人が、「せっかく投票してやったのに、わしらの生活なんもよーならんやん。選挙なんて意味ないやんけ。」という否定的な 意見ばかり出すのであれば社会は衰退する一方です。

・公約内容はどういったものか。
・公約内容は事実に基づいたものか。
・実現可能か。
・実現した先の社会はどうなるのか。
・自分/他人にとってどういった影響がでるのか。
・地域/社会にとってどういった影響があるのか。
・見落としはないか。不鮮明なままにしているところはないか。

これらのことをもう一度振り返り、吟味してより批判的になるべきです(否定ではなく批判)。

我々は民主的な社会に生きているはずです。故に投票という手段を用いて有権者一人ひとりが政治に参加する権利を持っています。せっかく与えられた権利なのですから有効に使いたいところです。

私個人的には政治はとてもおもしろいと感じています。様々な側面から政治を見ていけば、案外いろいろな落とし穴を発見するものです。政治に関して様々な側面からわかりやすく分析している番組がありました。『博士の異常な鼎談』(はかせのいじょうなていだん)という番組なのですが、これはとてもおもしろい。是非ようつべで見てみてください。(内容はかなり古いのですが十分楽しめるものかと思います。私は特に苫米地英人さん・町山智浩さん・高橋洋一さんあたりが好きです。)

Friday, November 25, 2011

内田樹氏の声明を読んで-その後脱線・・・

内田樹氏(神戸女学院大学名誉教授) が平松邦夫市長から大阪市長特別顧問を委託され、一か月が経ちます。その内田氏が、政治と教育の在り方について、氏の見解をブログで詳しく述べられています。

http://blog.tatsuru.com/2011/11/24_2042.php

この記事を読ませていただきましたが、学習者として考えるべきところがたくさんあります。あらゆるところで内田氏の見解にうなずく方もいらっしゃいますから、一度皆さんもご覧になってはいかがでしょうか。あと数日で大阪市の選挙が執行されますが、選挙のことは一旦考えずにご一読いただく方がよろしいかと思います。


以下は私の浅薄な見解です。乱暴な表現が随所に現れます。見るに堪えない方は、どうぞお引き取りください。


また、以下では4つのことについて考えます。①教育改革のスピード、②学ぶことと教育の役割、③教育の計画性と数値化、④現場の声、についてです。



①教育改革のスピード

内田氏は教育政策を劇的に変えることを望んでおらず、それは冒頭からその声明に現れます。(以下引用)


教育現場にドラスティックで急激な変化は馴染まない(から一部抜粋)
今日は維新の会が提案した教育基本条例案の理論的な難点を指摘していきたいと思っていますが、最大の問題点は、この条例案は「学校教育というのは非常に惰性の強いシステムであって、頻繁な変更になじまない」という現場の人間にとっての常識を理解していないということです。
ある教育方法を導入してから、その効果を検証をするまでには、10年から20年、場合によっては30年、40年かかります。2年や3年で効果が分かるはずがない。
教育は生身の人間が相手の仕事です。子供たちは学校に来る前にすでに、さまざまな思想信条、信教、イデオロギーをもった周囲の大人たちの影響を受けていま す。その子供たちを学校は迎え入れて、ある種の方向づけをしていく。子供たちの中に深く内面化し、それこそ、血肉化しているものをいじってゆく仕事です。 だから、ゆっくりやるしかない。それぞれの子供の個性によって、子供たちが受けてきた家庭教育によって、子供たちは教師の働きかけに違う反応を示す。全級 一斉に同じことを教えるわけにはゆかないんです。子供一人一人について、やり方を変えなければいけない。



これに対して批判する人はなかなかいらっしゃらないかと思います。いるとすれば、その方はあまりに時間に切迫された人生を過ごされた方か、教わればなんでもすぐにできてしまう頭の良い方だけでしょう。

氏は続けます。


教育現場ができるのは、「マイナーチェンジ」だけです。子供たちの成長に合わせてゆっくり変えてゆく。経験的に「これでまあ大丈夫」という教育方法を実践しつつ、微調整してゆく。
たしかに社会は急激に変化していきます。政治だって変わる。でも、そうした外の社会の変化のスピードに学校は合わせちゃいけないんです。ビジネスなら、新 しいビジネスモデルを取り入れて、起業して、市場にその適否の判断を委ねるということができる。それはすぐわかる。ビジネスにおいては「マーケットは間違 えない」というルールでゲームをやってますから。正しければ儲かり、間違っていれば倒産する。それだけのことです。でも、実際には設立された株式会社のう ち、20年後まで生き残っているのは100社に1社程度でしょう。会社ならそれでいい。でも、こっちは生身の人間が相手なんです。1%なんていう歩留まり で教育モデルを試すわけにはゆきません。100人中99人は「教育に失敗しました」というようなことを教師は言う訳にはゆかない。




これについてですが、「教育に失敗しました」というあたりが、私には少し読み取りずらかったです。私は教師が指導方法を間違えることは何度もあると思います。生身の人間を扱うわけですから、その場その場で100%正しい指導ができるはずがありません。しかしそれを振り返ってまた次の指導へと繋げることができますし、その失敗を反省して分析し、次へつなげる力こそ教師の力だと私は考えます。そういった意味では、内田氏の言う「教育に失敗しました」という教師は1%もいてはならないと思います。しかし、若干ですが「指導に失敗は許されない」という風にも感じとれました。私の勉強不足でしょうが。

整理し直すと、内田氏の発言の意図は、あくまで教育政策に後戻りはできないということであって、それ故に劇的な変革は避け、十分な判断・配慮で事実を吟味し、少しずつ変えていくしかないということを述べているのだと思います。



②学ぶこととと教育の役割

スティーブ・ジョブズと嘉納治五郎に見る「教育の意味」(から一部抜粋)
――こういうことを勉強すると、これこれこういういいことがある、この知識や技能や資格や免状はこういうふうにあなたの利益を増大させる、というような情報に 耳を貸すな、とジョブズは言っているんです。だって、まわりの人が「これを勉強しろ。これを勉強すると得をするぞ」と言い立てている通りに勉強するなら、 勇気なんか要りませんから。勇気が要るのは、「そんなことをしてなんの役に立つんだ」とまわりが責め立てて来るからです。それに対して本人は有効な反論が できない。でも、これがやりたい。これを学びたい。この先生についてゆきたい。そう切実に思う。だから、それを周囲の反対や無理解に抗して実行するために は勇気が要る。自分の心の声と直感を信じる勇気が要る。――

――僕たちは「何となく」あることがしたくなり、あることを避けたく思う。その理由をそのときは言えない。でも、何年か何十年か経って振り返ると、それらの選 択には必然性があることがわかる。それが「点」なんです。自分がこれからどういう点を結んで線を作ることになるのか、事前には言えない。「点を結ぶ」こと ができるのは、後から、回顧的に自分の人生を振り返ったときだけなんです。
教育はまさにそのような行程です。教育を受ける前には、自分がどうしてそれを勉強するのかその理由はわからない。だから、教育を受けるに先立って、「これ を勉強したら、どんないいことがあるんですか?」という理由の開示を求めるのは間違っている。ほんとうに必要な勉強は、「それをやらなければならないよう な気がするが、どうしてそんな気がするのかは説明できない」というかたちでなされるものだからです。学ぶに先立って学ぶことの意味や有用性について「教え ろ」というのは間違っているんです。――



これについては、特に現代社会の若者が理解しなくてはならないことだと思います。社会を生き抜くための方法や目標だけにとらわれていれば、その目標がなくなった時に生きる目標を失うことになるからです。自分の心の信ずるままにやりたいことをする(もちろん法という規範を逸脱しない限りで)ことが、最終的に自らを救うことになるのだと私は思っています。私の友人にも、「将来安定してるから公務員になる」などと生き残る手段ばかりを考えている人がいます。恥ずかしながら私もそのように考えていた時があります。しかし、何かの都合で辞めなくてはならなくなったとき、生きる希望を見失います。私はこうした生きる希望を見失うような人間をつくらないために教育があるのだと思います。



③教育の計画性と数値化


――成長する前に「僕はこれこれこういうプロセスを踏んで、これだけ成長しようと思います」という子供がいたら、その子には成長するチャンスがない。というの は、「成長する」ということは、それまで自分が知らなかった度量衡で自分のしたことの意味や価値を考量し、それまで自分が知らなかったロジックで自分の行 動を説明することができるようになるということだからです。だから、あらかじめ、「僕はこんなふうに成長する予定です」というようなことは言えるはずがな い。学びというのはつねにそういうふうに、未来に向けて身を投じる勇気を要する営みなんです。 
教育の効果というのは事後的にしか分からない。ジョブズにしても嘉納治五郎にしても、自分がある時点で受けた教育の意味がずっと後になるまでわからなかっ た。たぶん、僕たちは死ぬ間際になるまで自分の受けた教育の価値はほんとうは分からない。教育の意味は受けたその時点で開示されるわけじゃない。その時点 ではわからない。教育を受けた結果、自分自身が現に成長を遂げたことによって、受けた教育の意味がわかる。それを語れる語彙を持ったこと、その価値を考量 できる度量衡を手に入れたことこそが教育の贈り物だからです。
そういう非常にダイナミックなかたちで教育の価値、教育のアウトカムは現実化する。ですからもし教育に意味があるとすれば、それは教育を受けた人がそれによって成長したということです。成長しなければ、教育の意味は発見されないし、認知されないし、言葉にならない。――



これは人間だれしもが経験的にわかるものだと思います。自分にとって今まで教わってきたことが何だったのか判断できるのは、教わった時点から何年もあとになってからです。それを無視して、計画的にすべてが教育できるなどと考えることはあまりにも強欲なことです。ましてや心的成長の過程を数値化してそれに依存しようとしてしまう人がいたとしたら、その人は自分の人生をもう一度振り返るべきでしょう。

しかし、計画性と数値化から教育は逃れることができません。私たちは自分の将来の行動を他人に理解してもらうとき計画を立てて提案します。また、他人に何らかの結果を説明するとき、少なからず数値をつかいます。計画と数値は他人から合意を得るのにとても便利なツールです。それはビジネスの場でも教育の場でも同じです。「うちの子はどんな教育を受けて、どんな風に育ったのかしら」と気にする保護者の方や、「あのクラスの先生はどんな教育をしていて、子どもたちはどのように育つのかしら」と考える管理職、または「この学校はどんな教育をしていて、どんな結果が得られてるのだろう」と考える役所の人など、様々に関心を寄せる人がおり、その人たちの合意を得なければならないのが今の教育です。

現場の教師が主張しなくてはならないのは、一応の計画は立てられるけれどそれ通りにいくとは限らないこと、また一応の結果は出たけれどその結果だけでは成長過程すべては捉えらないこと、これら二つのことだと思います。責任逃れのように聞こえるかもしれませんが、それだけ人間の成長とは難しいものなのだと万人が理解するべきです。








④現場の声(この辺から話がわけわからん方向に向かいます)

内田氏も氏の声明で述べていますが、上記のことは実は多くの人が薄々感じつつも、なかなか公言できていません。それぞれの立場、それぞれの権威などの問題からなのでしょうか。

もう少し教育の現場というところで掘り下げていけば、上記の事(特に③)に関して教師はあまりにも発言力を持っていません。現場の教師は相手を選んで話さなくてはならないからです。例えば、保護者から「うちの子はどうして成績があがらないのでしょう。なんとかしてください。」と言われたとき、「成績を上げることが学ぶ力が備わるということではありませんから、まずはあなたの考えを正してください。」などとは到底言えません(こんな言い方は乱暴すぎますが、本心はこのように思っている教師はたくさんいるはずです)。また、管理職に「あなたの教え方は私がいままでやってきたこととはだいぶ違うわね。私の教育方針とは違うから直して頂戴。」と言われたとき、「大変失礼ですが、私は○○ということを学んで、○○の用に考えた上で○○しました。よろしければ先生のお考えをお聞かせください。」と言っても、「生意気いってないで私の言う通りにしたらいいの。」などと一蹴されます。また管理職は管理職で学校の教育方針として数値を公表しなければならないというジレンマも持っているはずです。教師の本心は、それが正論であったとしても、社会の中でうまくやっていかなくてはならないということのために抑制されています。

こういったオフレコの話というのはなかなか世に出回ることは無いと思いますが、事実、数値に支配されてはいけないという思いとそれでも数値を示さなければならないという葛藤、事実を伝えたいけれど伝えられないというジレンマが現場にはたくさんあります。こんなことは社会に出ればどんな職業であっても常にあることです。しかし、この葛藤がつらい・・・心が折れそうになる。Am I only a selfish brat...orz






もう夜を通り越して朝です。思考も停止し始めて何を言っているか分からなくなってきました。ここらへんで自重します・・・。

Sunday, November 13, 2011

ブログ開設にあたって

縁あって、本日からブログを開設することになりました。

このブログでは、主に私の学習分野である英語教育、ESL/EFL、またはそれに関わる諸関連分野について学んだこと、加えて私が日常生活で学んだことについて記述します。

日々、自らが学んだことをゆるぎない知識として保存するための方法に悩まされています。その方法を著名な先生方から学んでいく内、現時点で4つのステップを踏むべきだという考えにいたりました。そのステップとは、

①読む(ないし聞く):とにかく情報を収集します。主にネット、本、公演、学会、授業、おしゃべりなどで学びます。
②書く:①での情報を忘れないために、また学びの過程を保存するために書きます。
③公表する:学びを公表し、自らの考えを批判の場に置いてより深化させます。ここでは、痛烈な批判を意識しながら公表することによって、より正確な記述(わかりやすいか、本当に理解しているのか)を心がけるように自らを促す目的があります。
④修正する:いただいた批判をもとに、思考・知識をさらに深化させます。

です。

このように述べると、まるで私がストイックでドMな人間なのかと思われるでしょうw
自覚はないのですが、なんの因果か、My Philosophy Guru (http://www.markvernon.com/quiz/my-philosophy-guru/)での診断結果はゼノン(ストア派)でした orz

自らを分析してみると、自分にとても甘く体たらくな人間だと思います。大学に入る前までは学習というものが面倒(好きではあった)で、家に帰ればおやつを片手にゲーム(主にRPG)や映画(主にジブリ)に没頭するような毎日でした。しかし、悲しいことに厳しい現実というものは確かに存在するもので、いつまでもそんな生活は続けていられません。自分を律し、後の祭りにならぬよう自らを管理しなくてはなりません。

うだうだ言っていても何も変わらない。とにかくやるしかない。こうした厳しい現実と戦うために、今日からその戦いの足跡を残し、このブログの読者様と少しでも意見を交換できればと思います。

3日坊主にならぬよう願って。